重度障害の娘を母親が殺害した事件で執行猶予判決が下った。
29年間、トイレも食事もワンオペで看続けた末の悲劇だ。
世間は断罪するが、その過酷な環境を経験していない外野の言葉など何の重みもない。
この事件の根底にあるのは、確率的に必ず発生する「障害」というリスクを、すべて個人の自己責任として家庭に押し付けた社会の構造的欠陥だ。
生まれつき何らかの疾患や障害を持つ赤ちゃんの確率は約3〜5%と言われている。
その多くは、現代の医療技術によって治療が可能な病気や軽度なものだ。
生涯にわたって手厚い支援や福祉を必要とするような重度の障害に限れば、その確率は約0.5〜1%(100人〜200人に1人)程度になる。
学年に1人か2人はいる計算だ。決して天文学的な数字ではない。
この「子ガチャ」とも言える現実を前に、子どもを持つ多くの人間は「自分だけは大丈夫だろう」という正常性バイアスに身を任せている。
あるいは、リスクの過酷さを具体的にイメージできていない。
私は子どもを持たない人生を選択した。
世間一般の楽観論に流されず、「学年に1人」という無視できない確率を冷静に見つめ、最悪のシナリオを想定した結果だ。
この選択を今、改めて正解だったと確信している。
この決断は、「持たないこと=幸福」と盲信しているわけではない。
ただ、「確実に見えている不幸」を合理的に避けただけだ。
人生というゲームにおいて、苦痛やリスクという負の要素は確実に存在するが、それを凌駕する幸福が訪れるかどうかは完全に未知数である。
つまり、このギャンブルには期待値がない。
作った側も、作られた側も、ひとたびハズレを引けば人生が一変するほどのしんどさを背負う。
そのテーブルに次世代を座らせないことで、私は自分の代で負の連鎖を明確に断ち切った。
これによって人生が劇的に楽しくなったり、輝かしい幸せが手に入ったりするわけではないが、「最大の不幸を生み出さなかった」という絶対的な安堵がある。
世界を見渡せば、この「反出生主義」的なマインドは急速に一般層へ浸透している。
経済的な困窮、気候変動、過度な競争社会の中で、「今の世界に新しく子どもを誕生させるのは無責任だ」というリアリズムが若者の間で共有されつつある。
国家や経済界は少子化による文明崩壊を煽り出生を推奨するが、個人からすれば「国家を維持するための生贄」として子どもにリスクを背負わせる義理などない。
結果として人類がゆっくりと衰退していくとしても、それは何世代もかけた遠い先の話であり、今を生きる個人が背負う問題ではない。
未来の大義名分よりも、今ここにある個人の平穏こそが最優先されるべきだ。
とはいえ、世間一般の価値観から完全に離脱することには、独特の副作用もある。
マジョリティが敷いた「結婚・出産・育児」というゴールを放棄した瞬間、社会が提示するあらゆるエンタメや流行、他人の熱狂が急に色褪せ、面白さを感じられなくなっていくのだ。
ゲームのルールから降りた人間の傍らには、常に「凪のような退屈」が居座ることになる。
だが、この退屈は徹底的な「安全」の裏返しでもある。
致命的なトラブルや介護の地獄から隔離された空間で、AIを相手に時間をつぶし、自分の価値観の輪郭を再確認する。
どこかに辿り着くための「前進」ではなく、リスクのない平穏な状態を寿命が尽きるまで目減りさせずに「維持」すること。
それ自体が、世間のノイズから身を守り抜いた人間に許された、最も贅沢な人生の完成形なのかもしれない。

