世の中には、自分とは違う生き方をしている人を、わざわざ否定せずにはいられない人がいる。
FIREして自由な時間を楽しむ人、結婚せず独身生活を満喫する人、子どもを持たずに資産を築く人。
誰かに迷惑をかけているわけでもなく、本人が満足して暮らしているだけなのに、なぜか目の敵にされる。
「働かない人間は社会に貢献していない」
「独身の老後は寂しいに決まっている」
「金があっても幸せではないはずだ」
こうした言葉の裏には、単なる価値観の違いでは片づけられない心理が隠れているのかもしれない。
自分の選択が唯一の正解であってほしい
人は人生の中で、さまざまなコストを支払っている。
仕事に時間を費やし、収入を得る。結婚して家庭を築き、子どもを育てる。住宅ローンを返済し、社会的な責任を果たす。
もちろん、それらの選択には価値がある。
しかし、時間もお金も自由も、無制限に使えるわけではない。何かを選ぶことは、別の何かを諦めることでもある。
ここで、自分とは違う選択をした人が、楽しそうに暮らしている姿を見たらどうなるだろう。
例えば、長年働いてきた人の目の前に、働かずに自由な時間を満喫しているFIRE達成者が現れたとする。
その人が不幸なら、「やはり働くことには意味がある」と安心できる。
しかし、本人が楽しそうに暮らしていたらどうだろう。
自分が当然だと思っていた働き方や人生設計が、万人にとっての正解ではなかった可能性が浮かび上がる。
自分が選ばなかった人生にも価値があったと認めることは、自分の選択を否定することではない。
それでも、人によっては、自分が費やしてきた時間や労力の意味まで揺らぐように感じるのかもしれない。
他人を否定すれば、自分の選択を見直さずに済む
本来なら、他人の生き方を見て「自分も別の選択ができたかもしれない」と考えることもできる。
しかし、それには自分の過去や現在を見つめ直す必要がある。場合によっては、後悔や迷いと向き合わなければならない。
そこで、もっと簡単な解決策が生まれる。
「あの人の生き方には問題がある」と考えることだ。
FIREしている人には「社会に貢献していない」と言い、独身の人には「孤独で不幸だ」と言う。そうすれば、自分が選んだ人生の価値を再確認できる。
相手の人生を否定するだけなら、自分の人生を変える必要はない。
もちろん、他人を批判する人が全員、こうした心理で動いているわけではない。実際の利害や社会規範、政治的な信念などが関係する場合もある。
ただ、自分の選択への不安を、他人への攻撃によって解消する構造は十分に考えられる。
他人の幸福が自分の損失に見えてしまう
興味深いのは、他人が別の生き方で成功しても、自分の生活が直接悪化するわけではないという点だ。
独身者が幸せでも、既婚者の財産が減るわけではない。FIRE達成者が自由に暮らしていても、会社員の休日が奪われるわけではない。
それなのに、他人の幸福を素直に認められないことがある。
これは、自分の状況を絶対的な基準だけで判断するのではなく、他人との比較によって評価してしまうからかもしれない。
自分が我慢してきたことを、他人が我慢せずに済ませている。その事実が、自分の選択の不利な側面を意識させる。
すると、相手が得た自由を評価する代わりに、その自由には価値がないことにしようとする。
他人が不幸である必要まではなくても、自分の想定どおりの人生を送っていてくれたほうが、自分の世界観を維持しやすいのだ。
正解のない問いに、唯一の正解を求める
結婚と独身、持ち家と賃貸、労働とFIRE。これらには、それぞれ異なるメリットとデメリットがある。何を重視するかによって、合理的な選択は変わる。
自由な時間を重視する人もいれば、家族との生活を重視する人もいる。安定を求める人もいれば、身軽さを求める人もいる。
自分の価値観に基づいて人生を選ぶことと、その価値観を他人にも押しつけることは別の話だ。
他人が自分とは違う選択で幸せになれると認めても、自分の人生の価値が失われるわけではない。
むしろ、自分の選択に納得しているなら、他人がどんな人生を送っていようと、それほど気にする必要はないはずだ。
自分の人生を肯定するために、他人の人生を否定する必要はない。
自分の選択が正しかったことを証明するために、他人が間違っていなければならない。そう考えてしまうことこそ、人生を不必要に窮屈にしているのではないだろうか。
