東北地方では運動会の開催有無を知らせるために、早朝に花火を打ち上げる習慣がある。
私が生まれ育った地域にも、その文化はあった。
幼い頃から馴染みがあるため全国的に行われているものかと思い込んでいたが、実はそうではないらしい。そして、早朝から大きな爆発音をあげるこの運動会開催花火告知文化が、今問題になっている。
早朝の花火に「やめて」の声 運動会知らせる東北の風習、仙台では見送る学校増加
運動会開催告知の花火は、午前6時から6時半ごろに打ち上げられる。そんな時間帯にいきなり花火大会が近所で始まれば、そりゃ苦情はあるだろう。誰一人文句を言わない社会の方が恐ろしい。
なにせその学校に通う子どもがいない世帯にとっては、前触れなしの急襲である。学校に比較的近い場所に住んだ経験があれば、運動会の花火の音で飛び起きた経験の一度や二度経験しているのは言うまでもない。運動会開催花火告知文化圏に住む者の宿命である。
今回はトラブルの原因となっている運動会開催を知らせる花火について掘り下げていきたい。
花火を打ち上げる学校側の言い分
県内の学校事情に詳しい百井崇岩沼市教育長は「朝のせわしない時間に弁当を作るかどうか気をもむ家庭もあり、瞬時に広範囲に伝わる花火は効果的だ。年に一度だけの『地域のお祭り』と考え、見守ってもらえないだろうか」と理解を求める。
出典:河北新報 ONLINE NEWS
学校にとっては年に一度の運動会で張り切っているのかもしれないが、無理やり叩き起こされる住民にとっては迷惑でしかない。
年に一度の「地域のお祭り」である運動会は、家の近所にある学校の数だけ行われる。小学校と中学校で少なくとも年2回はある。
加えて、私が住んでいる地域では運動会以外でも学校の校庭が使われるイベントの場合、なぜか同じように花火が打ち上げられるので、とても年1回では済まない状況だ。
いつから運動会決行に花火を使用するようになったのか?
運動会決行に花火を使用した告知を行うことになったのはいつ頃からなのだろうか?
おそらく、この花火文化が出来上がったのは、相当昔のことなんじゃないかと思う。いつ始まったのか、誰が始めたのかでさえ、もはや定かでないかもしれない。
早朝に響く破裂音への苦情から、仙台市中心部などで廃れつつある運動会決行を知らせる花火。その起源は明治時代の旧陸軍行事にあり、学校の運動場整備に伴い東北各地に広がったとみられる。
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記事を読むと、運動会決行花火告知の起源は少なく見積もっても軽く100年以上さかのぼるようだ。1800年代、明治時代である。ちょっと前まで江戸幕府があった時代だ。「るろうに剣心」の時代設定と同じ(´;ω;`)ウゥゥ
何も考えずに過去のやり方を踏襲する、思考停止状態のお役所仕事が延々引き継がれてきた光景が容易に想像できる。
なぜ運動会決行を知らせるのに花火を使用しているのか?
その当時(明治時代)は、花火の爆発音を利用して開催を告知するのが、極めて効率的だったのだろう。他に効率よく運動会開催を知らせる手段もなかったに違いない。電話だって今のように各家庭に普及してはいなかった。
しかし、時代はすでに令和である。運動会決行花火告知文化が始まったと推測される明治時代から、大正・昭和・平成とすでに3つの元号を跨ぎ、100年以上の時を隔てている。
今一度花火の使用について考えてみる時期にきているのではないだろうか? 100年前と同じ花火告知を続けているために迷惑している人が少なからずいるのならば、代替手段を取らずに花火を打ち上げて開催告知するだけの合理的な理由が必要になってくるだろう。
花火以外の伝達手段はないのだろうか?
花火以外の伝達手段はないのだろうか? 現代はほとんどの人がスマホを持ち、ネット回線に繋げられる環境にある。今、学校に子供を通わせている親世代ならば、ほぼ100%スマホを利用しているだろう。
一部の学校では、時代に合わせた動きが確実に起きている。
都市化する立地環境に対応して、同じく市中心部にある東二番丁小(同)などでも、保護者宛ての電子メールの一斉送信や町内会組織の連絡網を使うなど、代替手段に切り替えつつある。
出典:河北新報 ONLINE NEWS
電子メールもあれば、学校のwebサイトもある時代だ。運動会当日の朝に電子メールを送るなりwebサイトで開催告知するなりすればいいだけの話であり、迷惑のかからない代替手段に切り替える流れは極めて自然なことだろう。
勘違いしてはいけないのが、花火の打ち上げは運動会決行を知らせるための手段にすぎないということだ。あくまで目的は「運動会が決行されることを運動会関係者が知る」ことにある。
つまり、「運動会の開催有無を知る」という目的が達成できれば、手段は花火に限定されないのだ。むしろ、打ち上げに最低でも1万円以上かかる花火よりも、ネットを利用した告知の方がコスパは良いし、誰の迷惑にもならない。
1万円かけて大きな破裂音を早朝の街に響かせる花火と、ほぼ無料同然の誰の迷惑にもならない電子メールやwebサイトを活用する方法、2019年の日本においてふさわしい伝達手段は果たしてどちらだろうか?
花火文化に固執する人たちもいる
SNSなどで運動会決行花火告知問題についての意見を見てみると、「少数派の意見を尊重するあまり窮屈な世の中になった」「毎月のことじゃないんだから我慢できないのか」「苦情の連絡を入れるなんて心が狭い」といった声が多いことに驚く。
「花火は運動会の風物詩だ」という意見はジョークかと思いきや、本気のようで怖くなってくる。ここまでくると花火の音が条件反射になって刷り込まれている状態に等しい。パブロフの犬だ。
「花火の爆発音」の後に「楽しい運動会」がある。それを繰り返し刷り込まれることで、ただの騒音でしかない「花火の爆発音」を聞いただけで楽しくなって、尻尾を振り始めてしまっている。「花火」と「運動会」が一体化してしまっている。
断言しよう。「花火」と「運動会」はセットではない。本来別々に分けられるべきものだ。「花火」はただのお知らせの手段にすぎない。開催という情報を得ることができるならば、手段は「花火」にこだわる必要はない。
手段と目的を履き違えてしまうと、それは時に悪習を生む。目的のために手段があるのであって、手段のために目的があるのではない。「花火」という手段に固執する人たちには、今一度花火を打ち上げる目的はなんだったのか冷静に考えてみて欲しい。
まとめ
運動会の開催告知に花火が利用され始めてからすでに長い年月が経過している。その間、社会状況は大きく変化した。インターネットが存在していない世界から、インターネットが十分普及した世界にだ。
「花火」という開催告知手段は、運動会に関係のない人までも巻き込んでしまう情報伝達手段であり、それによって迷惑している人も少なからずいる。
現在は、電子メールなどインターネットを活用することによって、「花火」という伝達手段よりも優れた(費用が安く、ピンポイントに情報を届けられる)伝達手段が存在している。
これだけ状況が揃っているにもかかわらず、花火による運動会開催告知を続けることに大義はないと私は思う。
冒頭で引用した百井崇岩沼市教育長の言葉に「年に一度だけの『地域のお祭り』と考え、見守ってもらえないだろうか」とあったが、「同じ気持ちを花火の轟音に悩まされているマイノリティの方たちにも向けてもらえないだろうか」と返したい。
この問題ではマジョリティ側で踏みつけている人達も、次は自分がマイノリティ側になって踏みつけられるかもしれない。自分がいつマイノリティになるかなんて分からない。未来において自分が踏みつけられる側になったときに、自分が今までどういう社会を作り上げてきたのか痛感することになるだろう。
だからこそ、踏みつけずにすむ代替手段があるのならば、それを選択することが将来の自分を助けることにもなると考えられないだろうか?
「古い方法だと迷惑かかる人がいるけど、新しい方法なら大丈夫だね」という風に、当然の思考としてマイノリティを傷つけない代替手段を選択する社会を作り上げていければ、自分がマイノリティになった際にも同じような配慮が期待できるだろう。
今回、周辺住民に配慮し花火による運動会開催告知を見送っている事例が仙台で増加しているのは、極めて理性的かつ合理的な判断であり、私は支持したい。